第2回「翻訳の社会的地位確立を目指して」

プレイベントに招待を受けたディズニーランドにて

1980年代に入ると、グローバル化の進展、自由貿易の恩恵に後押しされ、日本経済は国際的な発展を遂げる。同時に、雇用のあり方が変わり始め、人材を派遣する業務請負という形態が求められるようになった。こうした時代の流れを受けて、ホンヤク社は、1980年(昭和55年)、翻訳者を主としたスペシャリストの派遣業務を開始した。

派遣業務の転換期となったのが1983年(昭和58年)である。この年、東京ディズニーランドが開園。アメリカ以外で建設された世界初のディズニーパークであり、大きな注目を集めた。開園の計画立案と運営を請け負ったオリエンタルランドから関連資料の翻訳業務を任されたホンヤク社は、並行する形で、開園スタッフの人材派遣も担当することになる。この大規模なプロジェクトに伴って、人材派遣会社を別会社として分離し、マンカインド・アソシエイツ株式会社(現在は統合)を設⽴。本格的な人材派遣会社として業務を開始した。
「当時は、翻訳業務よりも人材派遣の方が売上を上げていたと聞いています」と、原⽥毅の長男であり、現ホンヤク社代表の原田真は振り返って話す。雇用形態の変化など、時代の変化をいち早くキャッチした結果だと言えるだろう。

こうして業務を拡張する中でも、原田がこだわったのは「語学スペシャリスト」という分野だった。柱となるのはあくまでも「語学」であり、やみくもに事業を多角化し、拡大するという考えはなかった。「世界情勢・経済情勢が変化しても、日本は海外との関係なくしては成り立たない国。だからこそ、語学は不可欠だ」という考えは、翻訳を志した時から少しも変わることはなかったのだ。

しかし、仕事に情熱をもって取り組む中で、原田は、翻訳が社会的に認知されていないという事実に直面する。日本にとって不可欠な産業だと考えていた原田にとって、厚生労働省の産業分類に「翻訳業」という項目すらないという事実が腹立たしかったのだ。そのため、翻訳を一つの産業として認めてほしいと、関係者に掛け合ったこともあると言う(現在は「学術研究,専門・技術サービス業」の「7292 翻訳業(著述家業を除く)」という分類)。翻訳を産業として認めてほしい、翻訳者の社会的な地位を向上させたい。そんな思いで1981年(昭和56年)4月に設立したのが「日本翻訳連盟」である。当初は任意団体であり、メンバーは翻訳学校と翻訳会社が合わせて十数社程度だったが、原田はその中心人物として組織の発展に奔走した。専門職としての地位を確立させるべく、「翻訳士認定試験」を開始するなど、日本の翻訳業の発展に貢献したと言えるだろう。1990年、連盟は経済産業省から認可を受け社団法人化されている。また、時を前後して1986年10月に、社団法人日本翻訳協会の設立にも原田は携わり、長きにわたり副会長を務めてきた。

翻訳連盟設立時の定款(提供:一般社団法人 日本翻訳連盟)

こうして、時代と顧客のニーズを敏感にキャッチしながら、翻訳という仕事に真摯に向き合ってきた結果、会社は徐々に発展を遂げていく。1987年(昭和62年)10月には、業務多様化に伴い、社名を設立時の「東京翻訳社」から現在の「株式会社ホンヤク社」に変更する。

元号が「昭和」から「平成」に変更され。ベルリンの壁が崩壊したのがその2年後の1989年。時代はいよいよ大きくうねりながら、変化していく。

当時オフィスを構えていた内外地図ビル
(千代⽥区外神⽥、2012年撮影)